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金沢地方裁判所 平成2年(行ウ)2号 判決

原告 高秀雄

被告 金沢労働基準監督署長

代理人 佐々木知子 鳥居勝 柴田秀明 高橋利幸 市川登美雄 土田栄 川村伸一 ほか四名

主文

一  原告の請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第一原告の請求

一  甲事件

被告が原告に対して昭和六〇年一〇月二二日付けでした労働者災害補償保険法(労災保険法)による療養補償給付を支給しない旨の処分(本件甲処分)を取り消す。

二  乙事件

被告が原告に対して平成元年六月二二日付けでした労災保険法による障害補償給付を支給しない旨の処分(本件乙処分)を取り消す。

第二事案の概要

本件は、家庭用品等の卸売を業とする会社に総務部長兼常務取締役として勤務していた原告が、昭和五八年三月一日、部長会議の席上で倒れて「右脳内出血、脳室穿破」の疾病(本件疾病)を発症(本件発症)し、その結果、左半身麻痺、軽度言語障害等の後遺症(本件後遺症)が残ったことに基づき、本件疾病及び本件後遺症(以下、本件後遺症をも含める趣旨で「本件疾病等」ということがある。)が業務上の疾病に該当するとして、被告に対して順次労災保険法による療養補償給付及び障害補償給付を請求したところ、被告において、各々これを支給しない旨の本件甲処分及び本件乙処分をした(以下、両不支給処分を「本件各処分」と総称する。)ので、これらの取消しを求めた事案である。

一  本件発症の経緯等に関する当事者間に争いのない事実(弁論の全趣旨により、明らかな事実を含む。)

1  原告は、昭和二年四月一八日生まれの男子で、昭和四三年五月一三日に株式会社荒木商事(荒木商事)に入社した。荒木商事は、金沢市問屋町二丁目八四番地に本社事務所を有し、主として県内のスーパーマーケット等を対象として家庭用品等の卸売を行うことを業とする会社である。原告は、荒木商事に昭和四三年五月に入社後、本社事務所内の総務部に配属され、昭和四五年三月に総務部長となり、本件発症に至るまで終始人事、経理及び総務関係の業務を担当した。なお、総務部長兼務のまま、昭和四九年三月に取締役に、更に昭和五一年九月に常務取締役に就任したが、本件発症当時、労働基準法(労基法)上の労働者であり、本件疾病が業務上の疾病に該当する限り、労災保険法の適用を受けうる地位にある。

2  原告の所属していた総務部の所管業務は、総務(一般総務、庶務全般及び人事管理)及び経理(コンピューター業務、会計及び経理)であり、原告は、これらを統括し、具体的には、人事管理、庶務総括、経理照合、試算表作成等の業務を担当し、主として、社員の採用及び退職、労働保険や社会保険関係の諸手続、給与計算、資金繰り、部下の作成した書類の点検等の業務に従事していたものである。また原告は、荒木商事の系列会社である荒木エージェント株式会社(荒木エージェント)の保険代行業務も行っていた。

3  荒木商事所定の勤務時間は、午前八時二五分から午後五時二五分までであり、休日は、第二土曜日、日曜日、祝祭日、年末年始及び夏季の休暇であった。しかし、原告は、総務部長兼常務取締役という立場で、かつ会社の鍵を預かっていた関係上、午前七時二〇分ころには家を出て、遅くとも午前八時ころまでには出社していた(会社の鍵は、原告のほか、荒木登社長と新保辰雄専務取締役も持っていた。)。また、残業者がいる場合にはその仕事が終わるのを待って取締りをして帰るため、原告の退社時刻は、午後八時ないし午後一〇時ころになることもあり、さらに、荒木商事の給与が毎月二〇日締切の二五日支払であって、毎月下旬には給与支払業務等のため午後一〇時以降、時には午前零時ころまで残業することもあった。

4  荒木商事は、昭和五七年五月ころから同年一〇月ころにかけて(工事期間につき、一、二箇月程度のずれがあるかもしれない。)、本社事務所の近くに第二配送センターを建設し、原告もこれに関与した。

5  荒木商事は、昭和五二年一〇月、総務部にコンピューターを導入し、これによって販売及び在庫整理の事務処理が行うこととなった。原告は、昭和五三年七月以後その責任者となったが、当初は販売管理が主で、その操作は専ら原告の部下である長瀬祐二総務課長が担当していた。そして昭和五四年一月からは給与システムにもコンピューターが導入されたところ、これについては原告が担当し、その入力操作も行うようになった。

その後、昭和五七年六月ないし同年七月ころ、右コンピューターを新機種に切り替える方針が決定され、同年八月に全システムが新規のもの(NECシステム一〇〇/八五)に切り替えられ、この切替作業は主として正規の勤務時間外に行われたところ、原告は、コンピューターの操作について基本的理解に欠けるところがあり、必ずしも適格でない面があったことから、このシステム切替後の業務の習熟に普通の人の二倍位の時間がかかり、そのため給与支払日前の土曜日、日曜日等にコンピューター販売会社である金沢情報処理センターの職員(中村謙一)の応援を得て事務を処理したことがあり、また、担当者の長瀬祐二総務課長とともに夜遅くまで残業したことがあった。

6  荒木商事は、昭和五八年二月五日から同月一二日の八日間、得意先を招待ないし優待するヨーロッパ(パリ・ローマ)旅行を行い、原告は荒木登社長とともに、これに参加した。同旅行の手続は東急観光株式会社(東急観光)が行い、荒木登社長が責任者となり、同人の母親や原告の娘も参加し、総勢二一名が参加したものである。

7  本件発症の日(昭和五八年三月一日)の直前の一週間は、月末の給与計算業務も含まれており、総務部は忙しかった。

8  昭和五八年三月一日、荒木商事の社長室において、午前八時五〇分ころから新保辰雄専務が議長となって毎月定例の部長会議が開かれた(会議は、総務部、営業部及び商品管理部の各部長並びに社長で構成する。この日、社長は午前一〇時ころに外出のため会議を退席したが、それまでの間、原告の本件発症は気付かれなかった。)。午前一〇時五〇分ころ、この部長会議の席上で本件発症が気付かれ、原告は直ちにタクシーで梅田内科医院に搬送されたが、同医院において大病院での診断を指示されて、直ちに金沢西病院へ搬送され、同病院において、頭部CTスキャン検査により本件疾病発症の診断がされ、右開頭、血腫剔出術が行われた。その後、原告は、金沢西病院のほか、加賀八幡温泉病院や城北病院等に入院してリハビリを受けたが、今日なお本件後遺症を残している。

9  原告は、昭和四四年ころに不活動性肺結核の既往歴を有していた。

また原告の血圧値は、昭和四八年九月の健康診断においては、一六〇から一〇〇ミリ/Hg(以下、この血圧値の単位は、省略する。)であり、昭和四九年九月の健康診断においては、一七〇から一〇五で高血圧「管理C、要精検」とされ、昭和五〇年九月の成人病予防検査においては、一五四から九二で高血圧とされ、その指導区分は「日常生活に注意を必要とします。高血圧症」というものであった。

二  原告による補償給付の請求、本件各処分及び不服申立手続(いずれも当事者間に争いがない。)

1  原告は、本件疾病等が業務上の疾病に該当するとして、被告に対して、昭和五九年一〇月一九日に労災保険法による療養補償の給付を請求したが、被告は、昭和六〇年一〇月二二日に本件甲処分をした。原告は、同処分を不服として、石川県労働基準局労働者補償保険審査官(審査官)に対して、同年一一月二〇日に審査請求をしたが、同審査請求は、昭和六一年四月二五日に棄却された。そこで、原告は、労働保険審査会(審査会)に対して、同年六月一九日に再審査請求をしたが、同再審査請求は、平成元年三月三〇日に棄却された。

2  原告は、本件疾病等が業務上の疾病に該当するとして、被告に対して、平成元年六月二日に労災保険法による障害補償の給付を請求したが、被告は、同月二二日に本件乙処分をした。原告は、同処分を不服として、審査官に対して、同年七月六日に審査請求をしたが、同審査請求は、平成二年三月二七日に棄却された。そこで、原告は、審査会に対して、同年四月二一日に再審査請求をしたが、同再審査請求については、裁決がされないままその請求のあった日から三箇月を経過した。

三  争点

本件の争点は、本件発症ないし本件疾病等が原告の荒木商事における業務ないし労働に起因するものかどうかに尽きるのであるが、この業務起因性の判断の前提として、大別して二点につき争いがある。一つは、原告の労働が慢性的に又は本件発症直前に過重なものであったかどうかという事実認定自体の問題であり、もう一つは、そもそも労災保険法の適用上、右業務起因性につきどのように判断するのが妥当かという法律解釈に係る問題である。以下、双方の主張の要旨を摘記する。

四  原告の主張の要旨

1  本件発症に至る経緯等について

(一) 原告は、日頃から慢性的な過労状態にあった。

(1) 原告の担当業務

総務部長兼常務取締役としての原告の業務は、量的にも質的にも重く、原告は、処理しきれない広汎な仕事を抱え、本件発症に至るまで慢性的な過労状態に陥っていた。

原告は、前記一の2の業務のほかに、車両管理や事故処理、更に荒木商事が所有する不動産の管理(建物の賃貸、修繕等)等の業務も担当しており、荒木エージェントの保険代行業務もすべて一人で行っていた。そして、これらの業務は、いずれも責任の重いものであって、特に資金繰りの業務は、仕入れ先に対して支払の猶予を求めたりするなど、重い精神的負担を伴うものであった。

(2) 原告の就業時間

原告は、会社の鍵を預かっていた関係上、常に午前七時三〇分ころには出社し、また、外勤の営業員が帰社するのや残業者が仕事を終えるのを待ち、かつ自ら残業することも多く、その退社時刻は午後八時ないし午後一〇時ころになるのが常態であった。

さらに、給与計算や経理事務(主として予算、決算等)の仕事を自宅に持ち帰り、帰宅後も二時間位仕事をすることが多く、特に給与締切日(毎月二〇日)から給与支払日(毎月二五日)までの数日間は、自宅での徹夜を含めて夜遅くまで仕事をすることが常であった。休日に出勤したり、そうでなくとも自宅で仕事をしなければならないのが常であり、年末年始の休みもほとんど所得税の年末調整の作業に費やさねばならなかった。

原告は、几帳面な性格と他の職員に対する思いやりから、このように仕事に打ち込んでいたもので、会社を欠勤したことはほとんどなかった。

(二) 本件発症に近接する時期には、次のような業務が更に加わって、原告の慢性的な過労を一層悪化させた。

(1) 第二配送センターの建設等の業務

原告は、第二配送センターの建設の工事責任者として、工事の進行具合の点検から火災予防を含む工事現場の見回りまで行った。

また、昭和五七年五月から同年九月にかけて行われた第四倉庫の一部増改築工事についても、その工事責任者として種々の業務に従事した。

(2) 新機種のコンピューター導入、切替え等に係る業務

昭和五七年六月ころから会社のコンピューターが新機種に切り替えられることになったため、システムの切替作業に従事した原告は、連日午後一〇時ないし午後一一時ころまで残業が続き、時には午前三時ころや徹夜になることもあった。原告のように五〇歳を過ぎた者がコンピューターの操作を行うのは一般的に見ても無理がある上、新しく導入されたコンピューターについては、その専門の担当者が原告の下に少なくとも三名は必要であったにもかかわらず、実際には一名しか配置されず、その分原告の負担は重くなった。この新しいコンピューターの体制が整うには約六か月間を要した。

原告は、新しいコンピューターにより主として給与計算の業務を行っていたが、これに慣れるための苦労があった上、その責任感からコンピューターの数値を更に自分で再点検していたため、負担が軽減することはなかった。

(3) ヨーロッパ旅行に伴う業務

原告は、実質的な責任者としてヨーロッパ旅行に参加した。

原告は、旅行前においては、旅行参加者の選択、招待及び優待の振分け、旅行参加者への事務連絡、旅行費用の徴収、損害保険の処理等の雑務を担当し、また旅行中においては、荒木登社長の母親の毛皮襟巻が盗難に遭う事件や体の不自由な客が一時行方不明になる事件が発生し、旅行責任者として気の休まることがなかった。

(三) 本件発症直前の原告の業務は、相当な激務であった。

原告は、右ヨーロッパ旅行から帰国後、その間に溜まっていた仕事を短期間に処理しなければならなかった。このため、帰国後は一日も休めず、資金繰りにも追われたほか、給与計算のため支払日(昭和五八年二月二五日)に向けて午前一時ころまで仕事することが続いた。

このような平常の業務に加え、国鉄資材事務所へ提出する書類の作成に追われ、本件発症の前日の昭和五八年二月二八日には、午後九時ころに帰宅して、その後自宅で本件発症当日である同年三月一日の午前三時ころまで右書類の作成に従事し、睡眠不足のまま、同日、いつものように午前七時二〇分ころに自宅を出て、午前七時三〇分ころに出社したものである。

(四) 原告が本件疾病を発症した際の状況について

昭和五八年三月一日午前八時五〇分ころから開かれた荒木商事の部長会議においては、月間販売目標や行事促進について討議された。同会議は、重要なものであって、出席者に精神的緊張を強いるものであった。原告は、同日午前一〇時五〇分ころ、発言中に急に舌がもつれて目がかすみ、意識を失って倒れた。

(五) 原告の平素の身体状況及び基礎疾病の有無について

原告は、昭和四八年ころから昭和五二年ころまでの数年間に何度か献血し、その際血圧測定を受けたが、血圧には異常がないと言われていたし、その後高血圧の治療を受けたことも降圧剤を服用したこともない。ヨーロッパ旅行に行くに際して病院で健康チェックを受けたところ、その血圧値は、昭和五八年一月二四日においては、一三八から六八であり、同年二月四日においては、一四〇から八〇であって、血圧は正常上限であり、医師からは血圧を含めて全く異常はないと言われた。したがって、原告は、高血圧傾向はあったものの、固定した高血圧ではなかった。

2  業務起因性の判断基準について

(一) ある疾病について業務起因性が肯定されるためには、必ずしも当該疾病が業務を唯一の原因とするものである必要はなく、当該疾病に罹患しやすい素因や業務遂行に起因しない既存疾病等の基礎疾病が条件ないし原因となって発症または死亡等した場合であっても、業務の遂行が基礎疾病を誘発または急激に増悪させる等、業務の遂行が基礎疾病と共働原因になって疾病を発症ないし増悪させたと認められる場合には、特段の事情のない限り、業務起因性が肯定されるというべきである。

(二) 被告が本件各処分の適法性の根拠としている昭和三六年二月一三日付け基発第一一六号労働省労働基準局長通達「中枢神経及び循環器疾患(脳卒中・急性心臓死等)の業務上外認定基準」(旧認定基準)及び昭和六二年一〇月二六日付け基発第六二〇号労働省労働基準局長通達「脳血管疾患及び虚血性心疾患等の認定基準について」(現行認定基準、以下両方の基準を「労働省基準」と総称する。)は、脳血管疾患等が業務上の疾病と認定されるためには、「業務に関連する突発的又はその発生状態を時間的、場所的に明確にしうる出来事若しくは特定の労働時間内に特に過激(質的に又は量的に)な業務に就労したことによる精神的又は肉体的負担」(災害)を要求し(旧認定基準)、あるいは、「イ 発生状態を時間的及び場所的に明確にし得る異常な出来事(業務に関する出来事に限る)に遭遇したこと」又は「ロ 日常業務に比較して、特に過重な業務に就労したこと」のいずれかに該当し、「業務上によることの明らかな過重負荷を発症前に受けていること」(加えて、「過重負荷を受けてからの症状出現までの時間的経過が医学上妥当なものであること」)を要求している。

しかしながら、右各基準は、いわゆる行政解釈にすぎず、労基法七五条、同法施行規則(以下単に「規則」というときは、この施行規則をいう。)三五条、並びにその別表(以下単に「別表」というときは、この別表をいう。)第一の二(九号)の解釈について、右のように「災害」又は「過重負荷」を業務起因性の要件とすることは実定法上の根拠を欠く上、循環器医学上の知見に反するばかりか、実際上も本件のような場合に著しく不合理な結果を招くこととなって失当である。

3  本件疾病等の業務起因性について

前記のとおり、本件発症前、原告は慢性的な過労状態にあり、本件発症に近接した時期の原告の業務はこの慢性的な過労を一層悪化させるものであり、本件発症直前の原告の業務は相当な激務であったところ、これらの事情に、前記本件発症の状況、原告の身体状況等を総合して考えるとき、原告の本件疾病等がその業務に起因したものであることは明らかというべきである。

したがって、原告に対して労災保険法上の給付をしないこととした被告の本件各処分は失当であり、取り消されるべきである。

五  被告の主張の要旨

1  原告が本件疾病に至った経緯等について

(一) 原告の日頃の業務内容は、慢性的な過労を惹起するようなものではなかった。

(1) 原告の担当業務

原告は、総務部の所管する業務をすべて一人で行っていたわけではなく、五人の部下職員とともに担当していたものである。

また、原告の行っていた給与計算の業務は、コンピューターによる処理が可能となった昭和五四年一月以後軽減され、銀行振込制度が導入された昭和五五年一月以後更に一層軽減されたものである。

資金繰りの業務については、常務取締役である原告の立場上、その本来の職務というべきであって、特別の業務とはいえないし、銀行からの大口の借入れのように責任の重いものについては荒木登社長が自ら担当していたものである。

さらに、荒木エージェントは、荒木商事の保険部門が独立して昭和三九年九月に設立された会社であるところ、その業務内容は、大正海上火災及び明治生命の代理店業務として、荒木商事及び系列会社の保険業務を行うもので、一般の保険会社のような募集業務は行っていない。この保険業務に関して原告が行っていたことは、伝票の整理が主であって、その数は系列会社の分も含めて一箇月に一〇枚前後であり、保険料も原則として口座振込となっており、原告にとって格別負担となるような業務内容ではなかった。

(2) 原告の就業時間

会社の鍵は、原告のほかに新保辰雄専務も預かっており、同人が会社事務所の開閉をしたこともあり、原告だけが特に多くの鍵を所持し、そのために他の者以上に勤務時間外労働や休日労働を必要以上に強いられていたわけではない。また、原告が仕事を自宅に持ち帰っていたことについては、その必要性自体疑問であるし、原告が休日出勤したことはほとんどなかった。すなわち、荒木商事において休日出勤をする必要があったのは主として営業部であり、原告が所属していた総務部はほとんどその必要がなかった。

また、年末調整の関係書類は毎年一月三一日までに税務署に提出するものであり、四十名余りという荒木商事の職員数から考えても、年末調整の作業がそれほど負担の重い業務であったとはいえず、しかもコンピューターの導入以後は、コンピューターから打ち出された数値をまとめるだけで、その能率は大きく増進されており、計画的に処理することが可能なものであって、年末年始の休みまで返上しなければならないほどの事務量はなかった。

なお、原告が給与計算や年末調整関係の書類を他の職員の目に触れないようにするために、これに関する事務を自宅や勤務時間外に処理していたとしても、荒木登社長の指示に基づくわけではなく、実際上も、そのような取扱いをする必要がなかったものであり、この点で原告の労働が過重になったということもない。

(二) 本件発症に近接する時期の原告の業務も、それほど過重なものではなかった。

(1) 第二配送センターの建設等の業務

第二配送センターの建設は、釣谷設計事務所が設計し、北国建設株式会社(北国建設)が建築工事を請け負って施工したものであるところ、右工事の進行状況は釣谷設計事務所がチェックし、工事中の建物は北国建設が管理していたのであって、このように専門業者が施工管理していたものであるから、原告が殊更工事の進行具合をチェックする必要はなかった。したがって、原告が右工事の進行具合をチェックしていたとしても、それは単に総務部所管の業務として、火災予防を含めて現場の見回り程度のことをしたにすぎず、これが特に過重な業務であったとはいえない。

(2) 新規種のコンピューター導入、切替え等に係る業務

昭和五七年八月、荒木商事に新規種のコンピューターが導入された際、そのシステムの切替作業を行ったのは主として長瀬祐二総務課長と金沢情報処理センターの職員であって、原告が右作業に直接携わったわけではなく、また、この作業は約一箇月間で終わり、二箇月目からは軌道に乗ったものである。加えて、原告がコンピューターを直接操作するのは、月一回の給与計算の時だけであり、その他は右総務課長が女子職員を補助者として担当していたものである。

(3) ヨーロッパ旅行に伴う業務

昭和五八年二月のヨーロッパ旅行に関しては、参加者の募集、負担割合の算定、旅行費用の徴収等はすべて営業部において担当した。総務部の仕事は、営業部が徴収した旅行費用を金庫に保管し、銀行に持って行くなど金銭の管理を行うだけであり、これも総務部の女子職員が行ったものである。また、同旅行の損害保険の保険料は旅行日程の説明会において徴収しており、右について原告が行った作業は、書類の作成程度であった。そして、原告と原告の娘は、希望して自発的に参加したものである。同旅行の手続は、すべて東急観光が行ったものであり、また体の不自由な客が行方不明になった際には、添乗員と参加者の男性全員が協力して探し、五分ないし一〇分程度で容易に発見できたものであって、このことが原告一人に殊更精神的な負担を強いたというわけではない。

(三) 本件発症直前の原告の業務が激務であったとはいえない。

原告が作成していたという国鉄資材事務所へ提出する書類は、国鉄に対する一定の資格継続のために作成する「企業経営調査表」であるところ、その内容は、貸借対照表、損益計算書等の決算書類から転記したものに納税証明書及び印鑑証明書を添付する定型的なものであって、その作成は、複雑困難ではなく、さほどの時間を要するものでもない。その上、右書類の提出期限は昭和五八年三月三一日であって、本件発症当日ないしその前夜に殊更作成する必要はなかったものである。

(四) 原告が本件疾病を発症した際の状況について

昭和五八年三月一日に開催された部長会議の議題は、同年二月からの新年度予算売上目標に対するチェック等営業に関するものが主であって、総務関係のものではなかった。特に配布資料はなく、担当者がメモ程度のものによって報告する形式で行われ、原告の役割が特に重大であったわけではなく、原告が精神的に緊張するような状況はなかった。原告は、同日午前一〇時五〇分ころ、座席で椅子に寄り掛かるようにして居眠りを始め、ヨダレを流し、声を掛けても、ロレツが回らないほどの異常を来したものである。発言中に倒れたというものではない。

(五) 原告の平素の身体状況及び基礎疾病の有無について

原告は、本件発症前から中等ないし軽症の高血圧であった。

原告は、昭和五一年以降、血圧が高いことを自覚しながら適切な治療に努めず、かえって医師からこの点を指摘されることを嫌って荒木商事の行う定期健康診断を受診していなかったものである。

2  業務起因性の判断基準について

(一) 業務起因性とは、労基法及び労災保険法上、傷病等が業務により生じたと認められる関係をいい、業務起因性が認められるためには、業務と傷病等との間に相当因果関係、即ち業務と傷病等との間に条件関係があること(当該業務に従事していなかったならば、当該傷病等が生じなかったと認められること)を前提とした上で、更に両者間に法的に見て労災補償を認めるのを相当とする関係があることが必要である(相当因果関係説)。

そして、労基法の定める労災補償責任の法的性格が「危険責任」の思想、すなわち使用者は、労働契約を通じて労働者をその支配下に置き、使用従属関係の下で労務を提供させるものであるから、その過程において当該労務に内在する各種の危険の現実化として労働者が負傷し又は疾病に罹患した場合には、使用者に過失がなくても、その危険を負担し、労働者の損失の填補にあたるべきであるという考え方に立脚していることからすれば、右の相当因果関係があるというのは、当該傷病等の発生が当該業務に内在ないし通常随伴する危険の現実化と認められる関係があることを意味するというべきである。

(二) 労働者の傷病等は、複数の原因が絡み合い、競合して発生するのが普通であり、結果発生との結び付きも各事案及び原因毎に強弱様々である。このような場合の業務起因性の有無は、具体的な事案に即して判断されるべきであるが、一般的に言えば、当該業務が当該傷病等に対して、他の原因と比較して相対的に有力な原因となっている関係が認められるかどうかによって判断するのが妥当であり、この関係が認められることを要し、かつこれで足りるとすべきである(相対的有力原因説)。なお、原告の主張する共働原因という概念は、条件関係のレベルの問題にすぎず、失当である。

(三) 業務上の傷病等に関する法令上の根拠は労基法七五条であり、このうち疾病については、業務上疾病の範囲を命令で定めるとされている(同条二項)。これを受けて規則は、「労基法七五条二項の規定による業務上の疾病は別表第一の二に掲げる疾病とする」旨規定し(規則三五条)、別表第一の二においては、業務上の負傷に起因する疾病(第一号)、特定の有害因子を含む業務に従事することにより当該業務に起因して発症し得ることが医学経験則上一般に認めれている疾病(第二号ないし第七号)、労働大臣の指定する疾病(第八号)及び「その他業務に起因することの明らかな疾病」(第九号)が規定されている。

そして、右の各疾病は、類型化して見た場合、これを「災害性疾病」、すなわち災害(業務に関連する突発的若しくはその発生状況を時間的、場所的に明確にし得る出来事)が業務と疾病との間の因果関係に介在している疾病と、「職業性(非災害性)疾病」、すなわち右のような災害を媒介とせずに、業務に内在ないし通常随伴する有害因子に長期間暴露されることにより発生する疾病とに二分することができる。

(四) 脳心疾患(脳血管疾患《出血性脳血管疾患及び虚血性脳血管疾患》並びに虚血性心疾患)は、単一の原因によって発症するものではなく、高血圧症、動脈硬化の進行、高脂血症、糖尿病、肥満、塩分の取りすぎ等の食生活の影響、喫煙、飲酒及び加齢等々の、多数かつ種々の原因が複雑に影響し合って発症するという特徴がある。

(1) 災害性疾病としての脳心疾患における業務起因性は、まず脳心疾患の誘因たりうる危険性を有する災害としての「過重負荷」の存否、右過重負荷と発症との条件関係の有無を検討し、これが肯定された場合、更に前記相当因果関係の有無を検討することとなる。このような考え方は、医学上の知見に基づくものであり、労働省は、これを踏まえて前記労働省基準を定めたものである。

(2) これに対して、職業性疾病としての脳心疾患における業務起因性は、発症と条件関係をもつ業務に関連する漸進的な疾病の原因となる事象の存否、右事象と発症との条件関係の有無を検討し、これが肯定された場合、更に前記相当因果関係の有無を検討することとなる。

そして、別表第一の二の第九号にいう「その他業務に起因することの明らかな疾病」とは、その文言及び体裁に照らして、他の各号末尾の条項を受けたものと考えられるから、これらに準じて理解されるべきものであり、したがって「業務に起因することが明らかな」とは、「当該業務に当該疾病を発症させ得る日常生活一般には見られない高度の危険性が認められる」という意味に理解すべきものである。すなわち、職業性疾病としての脳心疾患において問題とされることの多い疲労や精神的負荷は、元来は日常生活一般にも業務にもありふれて見られるものであり、特定の業務に特有のものではないから、これが労災補償の対象となるためには、右疲労の精神的負荷が日常生活一般には見られない高度に危険といいうる程度に達していることが必要であると理解すべきものである。

3  本件疾病等の業務起因性について

右により本件を見るに、前記のとおり、原告については、日常の業務はもとより、本件発症前一週間以内に従事した業務も特に過重であったとはいい難い上、本件発症直前に業務に関連する突発的かつ異常な出来事が発生した事実もない。したがって、本件発症は、原告の基礎疾病である高血圧症が自然に増悪した結果によるものというべきであって、本件疾病等が原告の業務に起因したものということは到底できない。よって、本件疾病等につき、原告に対して労災保険法上の給付をしないこととした被告の本件各処分は相当であり、瑕疵がない。

第三争点に対する判断

一  本件発症に至るまでの原告の業務内容、心身状況等

前記第二「事案の概要」の一記載の事実、〈証拠略〉を総合すると、本件発症前の原告の業務等につき、以下のように認定ないし判断するのが相当である(適宜、認定ないし判断に反する証拠の採否等にも触れる。)。

1  原告は、昭和二年四月一八日生まれの男子で、昭和四三年五月一三日に荒木商事に入社した。

荒木商事は、金沢市における老舗であり、同市問屋町二丁目八四番地に本社事務所を有し、主として県内のスーパー等を対象として家庭用品等の卸売を業とする会社である。同会社の組織は、荒木登社長の下に総務部、営業部及び商品管理部(甲六と乙五においては、営業部と商品管理部の組織割りにつき若干の相違があるが、乙五によれば、営業部は第一営業部と第二営業部に分けられ、商品管理部は仕入れ、商品及び配送の三つの部門に分けられている。)の三つの部があって、その職員数は本件発症当時四十名ないし四十二、三名であった(原告の供述中に五十名位であったとする部分があるが、〈証拠略〉に照らして、右認定は動かない。)。

原告は、荒木商事に入社後、終始本社総務部に配属され、人事、経理及び総務関係の業務を担当した。昭和四五年三月に総務部長となり、総務部長兼務のまま、昭和四九年三月に取締役に、また昭和五一年九月に常務取締役に就任した。

2  原告の所属していた総務部の所管業務は、総務(一般総務、庶務全般及び人事管理)及び経理(コンピューター業務、会計及び経理)であり、原告がこれらを統括していた。原告の直属の部下は長瀬祐二総務課長であり、同人は、財務と労務の責任者として、元帳及び試算表の作成、給与計算(後記のとおり、特にコンピューター業務)等の業務に従事し、同課長の下に経理と会計の事務を担当する女子職員が三、四名配置されていた。

原告は、具体的には、人事管理、庶務総括、経理照合、試算表作成等の業務を担当し、主として社員の採用及び退職、労働保険や社会保険関係の諸手続、給与計算、資金繰り、部下の作成した書類の点検等の業務に従事するほか、荒木エージェントの保険代行業務や車両管理、事故処理等の業務も行っていた。なお、原告は、右の業務をほとんど一人で行っていたように供述するが、前記部下職員が基礎的作業をしていることは明らかであり、このような職制からしても、また証人荒木登の証言に照らしても、著しい誇張であり、到底採用し難い(右部下職員が伝票整理をし、請求書を作成し、給与計算の前提資料等を作成していたことは、原告自ら供述するところである。)。これを要するに、通常の経理事務は主として部下職員がしていたものであり、原告は、これに含まれない人事、庶務、資金繰り、事故処理、保険金の集金等々の諸々の事務をしていたものである。問題となる点に関しては、以下のとおりである。

まず、予算業務については、日頃から付けている日報に基づき、毎月各部署に対する割り当ての原案を作成し、毎月一回開かれる定例の部長会議で承認を受けていた。また、決算業務については、荒木商事の営業年度は二月一日から翌年の一月三一日までであり、確定申告の手続(これは同年四月三〇日までに行うことになる。)は高木会計事務所に委託されており、原告は、毎年二月上旬ころからこの決算書類の元となる資料を作成して同事務所に引き継いでいたが、この資料を作成するに際し、コンピューターの数値と自ら計算した数値とを対照とするなどの業務をしていた(原告の供述によれば、右会計事務所に決算書類の作成を依頼するに際して詳細なメモを作成したり、コンピューターの数値の正確性を確認した由であるが、証人荒木登の証言及び経験則に照らして、会計事務所に決算書類の作成を依頼している以上、右のような詳細なメモを作成したり、コンピューターの数値を詳細に確認する必要があったとはにわかに認め難く、原告がこの点で過重な労働を自らに課していたということの真偽ないしその労働の程度については、証拠上必ずしも具体的に明らかでなく、にわかに断じ難いところである。)。

給与計算の業務に関しては、最終的に原告が整理していた。荒木商事の給与は日給月給(毎月二〇日締めで二五日支払)であり、欠勤のほか遅刻や早退等も計算に入れて行う必要があった(遅刻及び早退が三回あると、給与が二五分の一削減される。)が、社員の勤務内容は部下職員が一覧表化して原告に交付し、基本給が定められており、残業手当制度がなく、社員が約四十名程度であり、かつ後記のとおり、昭和五四年一月、同業務についてコンピューターが導入され、また昭和五五年一月からは給与の銀行振込制度が導入されるなどしたため、これに係る原告の事務量は、さほどのものではなかったというべきである。

原告の供述や、原告の妻知恵子の証言では、荒木社長の妻と母に「闇給与」を支払っていたので、この作業を会社ですることができず、自宅に持ち帰り、月の一回程度はこのために徹夜していたかのようにいうが、荒木社長の母に給与を支払っていたことは直ちに認められず(〈証拠略〉参照。この年末調整一覧表にその記載がない。)、荒木社長の妻への支払が「闇」給与かどうかも定かでなく(証人荒木登の証言では、本社以外の部門で稼働していた由であるが、定かでない。)、いずれにしても、荒木商事の社員の給与が相互に秘密であったというのは「建前」で、実際には社員間では格別秘密にするほどのことではなかった旨、原告自身供述するところであり、これを秘密にすることによって、特にその事務量が増大したということは認めることができない。一方で、原告は、コンピューターを午後八時ころまで使用できなかったために、夜間労働や自宅での労働、徹夜が多かった旨も述べるが、総務部よりもむしろ営業部のほうが残業が多く、この営業部がコンピューターを日常的に午後八時まで専用していたことを認めるべき確たる証拠はなく、この点についての原告の供述は採用の限りでない。

前掲各証拠上、原告がコンピューターをほとんど操作できなかったことは明らかであり、そのため、コンピューター導入後においても、自分の手書きの計算書の数値とコンピューター上の数値が合致することを確認していたにほかならない。給与、決算、後記国鉄提出資料等のため、このような手書きの計算書を作成し、これに莫大な労力を要したというのが、「過重労働」に係る原告の主たる言い分であるが、原告がコンピューターを操作できようとできまいと、これらは、本件発症時これに一〇年以上携わっていた原告によって、毎月、毎年のいわば日常的に習熟していたはずの業務であり、証人荒木登及び新保辰雄の証言に照らしても、かつ一般的に考えても、これらが莫大な労力を要するものとは容易に認め難く、原告が誠実で真面目な社員であったことは否定すべくもないにしても、原告と一緒に帰宅するために原告の娘美子が冬期間連日原告の車(ただし、荒木商事が原告に貸与していたもの)の中で午後六時から三、四時間原告が退社するのを待っていたとか、原告が家庭にあってもほとんどくつろぐ間もとらずにほぼ毎晩のように午前一時まで荒木商事の仕事をしていたなどと述べる前記妻知恵子の証言は、誇張にすぎるものと疑わざるを得ず、直ちに採用できない。

以上要するに、右のとおり、家庭内でしたという原告の仕事内容に関する原告や妻の供述、証言が誇張したものと疑われる結果、以上に係る原告の労働の質及び量を具体的に認定しうる客観的証拠が乏しく、ひいてはその軽重を評定することが著しく困難であるということになる。個別の点の証拠採否については、後に更に説示する。

原告は、資金繰りの業務も行っていたところ、荒木登社長からその人柄を買われて印鑑を預かり、信用(限度内)借入れや手形の割引、ジャンプ等通常の資金繰りを行っていたが、銀行からの大口借入れについては同社長が自ら行っていた。

なお、原告は、資金繰りの業務はすべて自分が行っていた旨供述するが、前掲各証拠によれば、荒木商事は荒木家の家業(ただし、事業内容は変転している。)を法人化したもので、荒木社長はいわばワンマン経営者であり、対外的部門を担当していたことが認められ、証人荒木登の証言及び経験則に照らしても、原告の右供述部分は採用できない。昭和五七年から昭和五八年にかけての時期には、荒木商事の業績が悪化したため、管理職がボーナスを辞退したり、一般の職員のボーナスが削減されたりしたこともあり、このころ原告の資金繰りに係る業務も相当忙しかったものではある。しかし、同会社の決算が赤字に転落したり職員の給与が遅配になるようなことまではなく、この時期に原告の資金繰り業務が顕著に増大したということはなかった(この増大を認めさせる確たる証拠はない。原告がある程度銀行との交渉にあたっていたにしても、これが信用供与限度の拡大等のための実質的なものであったことを認めるべき確たる証拠がなく、原告の供述により、後記建設ないし増築工事の資金の借入れに関して、原告が銀行と交渉したことが認められるにとどまる。ただし、これに関しては、当然荒木社長とも相談し、社内の決裁を経ているはずであって、原告は主としてその所管に係る経理事務の関係上で銀行と交渉したものと考えられる。ただし、荒木社長は、原告の「誠実さ」を信頼していたが、前記事情により、会社の経営は全面的に自ら掌握しており、右建設自体は会社経営戦略に直接関係する事柄であるからである。)。

原告はまた、荒木エージェントの保険代行業務も行っていたが、同会社は荒木商事及び系列会社の保険業務を行うもので、一般の保険会社のような募集業務は行っておらず、原告が行っていた業務内容は、伝票の整理が主で、その数は系列会社の分も含めて一か月に一〇枚程度であった。

原告は、荒木エージェントの保険代行業務としてセールスも行った旨供述し、妻知恵子もこれに沿った証言をするところ、原告が集金業務の合間にさような勧誘をしたことがあった(原告の供述の趣旨もこの程度のものをいうものと理解され、そうであれば、措信できないわけではない。)にしても、証人荒木登の証言に照らすとき、原告の通常業務として、そのようなセールス活動はしていなかったものと見るほかない。

3  荒木商事所定の勤務時間は、午前八時二五分から午後五時二五分までであり、休日は、第二土曜日、日曜日、祝祭日、年末年始及び夏季休暇であった。しかし、原告は、会社の鍵を預かっていた関係上、午前七時二〇分ころに家を出て、午前七時三〇分ころに出社していた。もっとも、原告のほか荒木登社長と新保辰雄専務も会社の鍵を持っており、同専務においても午前七時四五分ころまでには出社しており、早いほうが会社事務所の鍵を開けるという習慣で、大体原告が七、八割位、同専務が二、三割位の割合で鍵を開けていた。

他方、原告は、残業者がいる場合にその仕事が終わるのを待って帰ることが多く(新保専務のほうが残っていたこともないわけではない。)、原告の退社時刻は午後八時ないし午後一〇時ころになることが相当あった。また、前記のとおり、荒木商事の給与支払が毎月二〇日締切の二五日支払となっていたことから、銀行には二三日までに各社員への支払額を通知する必要があり、二〇日から二二日ころの間には、給与支払業務等のため午後一〇時から時には午前零時ころまで残業することもあった。前記のとおり、原告は、この間に限らず日常的にその退社時刻が午後八時ないし午後一〇時になるのが常で、それより遅くなることも多かった旨供述し、〈証拠略〉、妻知恵子及び新保修三郎の各証言もこれに沿う(ただし、新保修三郎の証言は曖昧であり、その証言内容自体から、同人は原告の業務の質及び量を具体的には知らないことが明らかである。以下この証言に関しては、同旨である。)が、前示理由や、証人荒木登及び同新保辰雄の各証言に照らして採用することができない。

原告は、前記のような給与計算や経理事務(主として予算及び決算関係)の仕事を自宅に持ち帰って処理することもあり、特に毎月二〇日から二二、三日までの二、三日間は、会社で遅くまで残業するだけでなく、自宅で徹夜して仕事をしたこともあったようである(「ようである」と曖昧にいうのは、前示のとおり、そのような必要があるほどの事務量とは考え難いが、原告とその妻が仕事で徹夜していたというのであれば、徹夜したこともあったのかもしれないといわざるを得ないからである。)。

しかし、これを超えて、原告は、毎日のように自宅に持ち帰って二時間位は仕事をし、給与計算の時期には徹夜を含めて夜遅くまで仕事をするのが常であった旨供述する部分並びに〈証拠略〉、妻知恵子及び新保修三郎の各証言中これに沿う部分については、前示理由やその余の前掲各証拠に照らして採用できない。

更に、原告は、休日にも出勤したり自宅で仕事をしたことがあったほか、年末年始の休みに所得税の年末調整の作業をしたこともあったようである(曖昧にいうのは、前同)。

しかし、原告の供述中、休日に出勤したり自宅で仕事をすることが常であり、年末年始の休みもそのほとんど自宅で年末調整の作業に費やしたように供述する部分及びその妻知恵子のこれに沿う証言部分については、証人荒木登及び同新保辰雄の各証言に照らして採用し難い。けだし、法律上所得税の年末調整の関係書類は毎年一月三一日までに税務署に提出すれば足りるものであり、前示のとおり、給与計算や年末調整関係の書類が一般の職員の目に触れないようにするというのは単なる建前にすぎず、基礎資料は元来部下職員が一覧表化しており、格別特殊な操作を要したわけではなく、証人荒木登の証言及び弁論の全趣旨によれば、同証人が原告に対して、これらの関係書類が一般の職員の目に触れないように殊更指示したことはなかったことが認められるからである。原告の家にあったという甲二八には、「昭和五八年一月五日」にコンピューターからアウトプットしたような記載があるが、これが仮に同日原告がアウトプットしたものとしても、それだけのことで(同日が平日であることは暦の上から明らかである。)、むしろコンピューターにより直ちにこれがアウトプットされうるものであり、それだけ原告の事務量も軽減されていたことを示すにすぎないというべきである。

4  荒木商事は、昭和五七年五月から同年一〇月にかけて、第二配送センターを建設した。その設計監理は釣谷設計事務所が担当し、工事は北国建設がした。原告は、右工事の責任者として、工事の進行具合をチェックしたり、また火災予防等のためもあって工事現場の見回りをしたりしたが、本社事務所から歩いて一、二分の所であり、仕事の合間に容易に見ることができたはずであり、これが特に過重な労働とは到底考えられない。この点に関して、原告は、一日も何回も見たというが、そうであれば、日中原告にはそれだけの余裕があったことが窺われるにすぎない。元来、原告は、日中庶務全般の仕事をしていたようであり、コンピューターに触れない以上、銀行に行ったり、保険金を受領したり、各種行事等の文案を作成したり、要するに、雑多な仕事をしていたものであり、忙しいといえば忙しかったであろうし、荒木商事が雑多な商品を扱う問屋であり、本件発症当時余り良好な経営状態ではなかったことなどに照らして、例えば営業部門から原告の業務内容を見れば、格別の業績を挙げるまでもなく、日常業務を無難に遂行していれば足りる比較的楽な仕事に見えたはずである。原告とその妻知恵子は、当然とはいえ、原告の業務が異常に忙しかったかのようにいうが、善し悪しは別にして、荒木商事においては、本件発症当時営業部門のほうが忙しかったことはその余の前掲各証拠上明らかである。原告は、右工事に関して、総務部長兼常務取締役として通常すべき仕事で、かつ無理なくできたことをしたにすぎないものと考えられ、これを否定するに足りる確たる証拠はない。なお、原告は、火災の発生が心配で、深夜零時から午前二時ころまで待機したことも相当回数あったように供述するが、その供述自体不自然であって、容易に採用することができない。

原告は、同年五月から九月にかけて行われた第四倉庫の一部増築工事についても、その工事責任者として関与したが、ほぼ前同様のものであったと考えるのが相当である。

5  荒木商事は、昭和五二年一〇月、総務部にコンピューターを導入し、これによって販売及び在庫整理の事務処理を行うこととなった。原告は、昭和五三年七月以後、荒木徹(荒木社長の長男)を引き継いでその責任者となったが、当初は販売管理が主で、その操作は専ら原告の部下である長瀬祐二総務課長が担当していた。そして昭和五四年一月からは給与システムにもコンピューターが導入されたため、これについては原告が担当し、その入力操作も行うようになった。ところが、昭和五七年六月ないし七月ころ、右コンピューターを新機種に切り替える方針が決定され、同年八月に全システムが新規のものに切り替えられた。この切替作業は長瀬祐二総務課長と金沢情報処理センターの職員である中村謙一が中心となって、主に正規の勤務時間外に行われ、約一か月を要したが、二か月目からは何とか軌道に乗った(なお、原告は、新規のシステムが軌道に乗るにはもっと期間を要した旨供述するが、〈証拠略〉に照らして採用し難い。)。

原告は、新機種のコンピューターによって給与計算の業務を行っていた(その他の業務については、長瀬祐二総務課長と女子職員が担当した。)が、同人は五〇歳を過ぎており、コンピューターの操作について基本的理解に欠けるところがあって、必ずしも適格でない面があったことから、システム切替後の業務の習熟に普通の二倍位の時間がかかり、そのためこの切替直後の給与支払日前の土曜日、日曜日等に右中村謙一の応援を得て事務を処理したことがあった。また、原告は、このころ、担当者の長瀬祐二総務課長とともに夜遅くまで残業したこともあった。なお、甲一七中には、原告がシステムの切替作業のため連日午後一〇時ないし午後一一時ころまで残業を行い、時には午前三時ころや徹夜になることもあった旨の記載があるけれども、証人新保辰雄の証言に照らして、にわかに採用し難いところである。

新機種のコンピューターの導入によって、補助簿や元帳の備付け、帳簿間の転記が不要になり、給与計算や所得税の年末調整の作業が軽減されることとなった。もっとも、原告は、その責任感から、コンピューターの数値を別途自分で計算した数値と照合していたため、その業務が軽減することはなかった旨供述する。経験則上も証人荒木登の証言に照らしても、そのような作業が必要であったとは認め難く、原告が果してどの程度の照合確認作業をしたのか、具体的には必ずしも明らかでない。前示甲二八を見ると、年末調整の作業が顕著に軽減されており、また原告のする給与計算の内容が前示のとおりである以上、この照合もさほど困難なものではなかったと見るのが相当である(元来、コンピューターなしに原告はこれを計算していたはずであるから、コンピューターの導入によりこれが困難になったはずがない。)。

6  荒木商事は、昭和五八年二月五日から同月一二日までの八日間、得意先を接待するヨーロッパ旅行を行った(行き先は、ローマ、パリのみである。)が、得意先を招待したものではなく、荒木商事が企画して友好を深めるという程度のものであった(若干の優遇、接待があったのであろうが、その詳細は定かでない。)。荒木商事に直接関係する者としては、荒木登社長がその総括責任者として参加し、同人の母親、妻及び次男が参加し、原告及びその娘が参加した。東急観光の男子添乗員が付き、これを除いて総勢二一名が参加したものである。原告は、荒木商事における二、三番目の地位にあることを契機として旅行に参加したものではあるが、娘の美子とその嫁入り前に一緒にヨーロッパに行けることを楽しみにして、自ら費用三五万円を負担してこれに参加したものである。もっとも、二〇名で団体扱いとなる都合もあったし、またその職責上、同旅行において団体の世話をせざるを得ないとの気持ちもあり、半ば義務的に参加した面もあった。原告と同人の娘が自発的に参加した旨の証人荒木登の証言は、同人から見た一方的見解であり、また、原告やその娘が嫌々参加したかのようにいう〈証拠略〉、妻知恵子の証言及び原告の供述も一方的であり、にわかに措信できない。同旅行に参加したかった社員のあったことは容易に推認でき(証人荒木登の証言では、実際に二、三名いた由である。)、原告がいうように、仮にこの期間が原告にとって最も忙しい時期であり、かつ真実参加したくなかったものとすれば、娘まで同行し、しかも、ファミリー保険を解約して費用を捻出するまでして参加することはなかったはずである。荒木社長がこれを無理強いしたなどという証拠はなく、原告が専らその「責任感」だけから無理してこれに参加したというのは、措信し難く、前示のとおり参加したい気持ちも十分にあって参加したものと見るほかない。

そして、同旅行の参加者の募集、負担割合の算定、旅行費用の徴収等は、営業部が中心となって担当し、東急観光との打ち合わせもし(原告は、これらの作業を主として原告が行った旨供述し、甲四一も当然これに沿っているが、乙一五及び証人荒木登の証言に照らして採用できない。)、旅行中も東急観光の添乗員が人員の確認、支払関係等の手続を行った。なお、同旅行中、ローマのコロセウムで体の不自由な客がバスの発車時間に間に合わず、一時行方不明になる事件があったが、添乗員や参加者の男性が協力して探し、間もなく見つかった(原告は、自分だけが探し、一時間ほどかかったかのように供述するが、それ自体不自然であり、また、証人荒木登の証言に照らしても、到底採用できない。)。また、パリで荒木登社長の母親の毛皮襟巻が盗難に遭う事件があったが、荒木一家において警察に届出したにすぎない。原告は、ルーブル美術館でも団体が全員いるかどうか気になって観光どころではなかった旨供述するところ、元来旅行社の添乗員がいるのであるから、それは原告がその性格上自ら無用に気を遣ったものとしかいいようがない。

7  本件発症日(昭和五八年三月一日)の直前の一週間は、月末の給与計算業務のほか、同年二月初旬から始めていた決算の作業に加え、資金繰りの業務等もあったため、ヨーロッパ旅行から帰国後の原告は、かなりの残業をした。なお、原告は、その本人尋問において、当初は、帰国後は一日も休まず出勤したかのように供述していたが、最終的には、結局日曜日(これは、帰国後三回ある。)に出勤した記憶はないと供述するに至ったものである。全然休日を取る余裕がなければ、前示のとおり、旅行に行く必要はなかったのであるから、原告は休日を取ったものというべきである。

そして、原告は、同年二月末ころ、商品管理部の鈴木三郎から、国鉄資材事務所に提出する企業経営調査表を同年三月一日(本件疾病の発症日)までに作成するよう依頼を受けた由であり(その余の前掲各証拠上、このように急ぐ必要はなく、鈴木が依頼したことを裏付ける証拠もない。原告は、当初その二日前に頼まれたように供述していたが、被告代理人から二月二七日が日曜日であることを指摘され、何時何処で頼まれたか明らかにできなくなったものである。)、その前日の同年二月二八日は、午後九時ころ帰宅した後、翌三月一日の午前三時ころまで右書類の作成作業を行った由である。この企業経営調査表は、国鉄に物資を納入する業者の信用調査のため毎年国鉄に提出するものであるが、荒木商事では古くからこれを作成して提出しており、貸借対照表、損益計算書等の決算書類から転記したもの(ただし、両者の項目の立て方は少し異なっていた。)に納税証明書及び印鑑証明書を添付する形式のもので、継続登録の場合には必要書類が軽減されていた(原告の供述によれば、奇数年と偶数年で若干差異があった由である。ただし、どちらが簡略であったのかは定かでない。)。原告は、毎年この作成に関与していたところ、証人荒木登の証言によれば、同調査表は経理に慣れた人の場合には通常一時間程度で作成できるものの由であるが、前掲各証拠上、もう少し時間が必要のように考えられる。原告の場合どれだけ必要なのかは、証拠上定かでない。この提出期限は、同年三月三一日であったが、整理の都合上同月一五日までに提出すべきこととされていたものであり、原告は当然これを知っていたはずであるから、特に、二月二八日の夜にしなければならない仕事ではなかった。しかし、原告とその妻が午前三時までこの仕事をしたというのであるから、これを否定すべき証拠はない(妻の当初の供述内容では、直接には知らなかったようであるのに、原告本人尋問の結果では、一緒に起きていたかのごとく供述しており、やや合点し難いところはある。ついでに、本件発症の当日のことを原告自身がよく記憶していることもやや理解し難い。)。

8  本件発症当日の三月一日、原告は、いつものように午前七時二〇分ころに自宅を出て、午前七時三〇分ころに出社した。

同日午前八時五〇分ころから、荒木商事の社長室において、荒木登社長(ただし、午前一〇時ころ退出)のほか、原告、新保辰雄専務、荒木徹常務、新保修三郎部長、鈴木三郎部長、洞庭守部長及び油野省吾部長の八名が出席して、毎月定例の部長会議が開かれた。同会議では、新保辰雄専務が議長となって、同年二月からの新年度予算と売上目標に対するチェック等営業に関する事項を主として、人事の問題についても討議が行われた。その席上、原告は、予算等に関するメモを用意し、総務部の所管する事項については発言したことがあった(これを否定する証人荒木登及び同新保辰雄の各証言は、証人新保修三郎の証言及び原告の供述に照らして採用しない。)が、原告の発言は議題に対する総務部としての意見を述べる程度で、特に従来の部長会議と異なった議題があったわけではなく、原告が他の出席者から問いつめられたりするようなこともなかった。

そして、同日午前一〇時五〇分ころ、原告は、座席で椅子に寄り掛かるようにして居眠りを始め、周囲の出席者が声をかけてもロレツが回らない状況になった。あるいは、原告は、自分で発言中にロレツが回らない状況になった(原告がその旨供述し、証人新保修三郎もこれに沿った証言をする(ただし、相当曖昧ではある。)ほか、〈証拠略〉もこれに沿っているかのようである。この点は格別本件の結論を左右しないところである。)。いずれにしても、「倒れた」という状況ではなく、救急車を呼ぶ必要を一同感じなかったようである(前掲各証拠中には、原告が家に帰りたいと言ったので、タクシーで送ったところ、家人(妻)が留守だったので、娘の勤務先に電話して娘から梅田医院を教えてもらったとの証拠と、荒木商事から誰かが娘に電話して梅田医院を教えてもらって直接梅田医院にタクシーで送ったとの証拠があるが、タクシーを利用していることなどからして、誰も原告がさほど重篤な状態にあると気付かなかったものであり、おそらく前のほうが真実であろうと考えられる。いずれにしても、前示のとおり、「倒れた」という状況ではなかった。)。

右の経緯により、新保修三郎部長と洞庭守部長がタクシーで原告を送り、まず梅田内科医院に行ったところ、梅田医師と思われる者がタクシーの窓から原告の手を診て、大きい病院での診察を指示したので、これに従い、直ちに金沢西病院へ搬送したものである。同病院で頭部CTスキャン検査が行われた結果、本件疾病の診断がされ、同病院で、右開頭、血腫剔出術が行われた。その後、原告は、金沢西病院のほか、加賀八幡温泉病院や城北病院等に入院してリハビリを受けたが、今日なお本件後遺症を残しているものである。

9  ところで、原告は、昭和四四年ころに不活動性肺結核の既往歴を有していた。

また、原告の血圧値は、昭和四八年九月の健康診断においては一六〇から一〇〇であり、昭和四九年九月の健康診断においては一七〇から一〇五で高血圧「管理C、要精検」とされ、昭和五〇年九月の成人病予防検査においては一五四から九二で高血圧とされ、その指導区分は「日常生活に注意を必要とします。高血圧症」というものであった。したがって、原告は、昭和四八年から昭和五〇年ころの間、高血圧傾向にあった。

しかるところ、その後荒木商事の行う健康診断を原告が受診していなかったこともあり、原告の血圧がその後どのように推移したかは必ずしも明らかではない。この点に関して、原告は、この間高血圧で医師の治療を受けたり、高血圧の薬を服用したこともない旨供述し、〈証拠略〉及び妻知恵子の証言もこれに沿っているが、他方、〈証拠略〉、証人荒木登及び同新保辰雄の各証言によれば、むしろ原告は、その後も引き続き高血圧傾向にあり、医師の治療を受けたり、あるいは高血圧の薬を服用したりしていたものと推測される。なお、甲二二によれば、原告の血圧値は、昭和五八年一月二四日においては一三八から六八、同年二月四日においては一四〇から八〇であったとされているが、乙三一、三二によれば、これらは何ら裏付資料のないものと強く疑わざるを得ず、到底採用できない。

二  労基法及び労災保険法上の業務起因性の診断基準及び本件疾病の業務起因性について

1  業務上疾病の診断基準について

労働者が「疾病」につき労災保険法に基づき療養補償給付(同法一二条の八第一項一号、七条一項)ないし障害補償給付(同法一二条の八第一項三号、七条一項)の支払を請求するためには、その労働者の疾病が「業務上かかった場合」であることを必要とするところ(労災保険法一二条の八第二項、労基法七五条、七七条。なお、労災保険法一条にいう「業務上の事由による疾病」とは、労基法七五条一項の「業務上疾病にかかった場合」と同じ意味に解するのが相当である。労災保険法七条一項一号では、単に「業務上の疾病」として、「事由」という文言を省いている。)、右「業務上かかった場合」をいう「業務上の疾病」の範囲は、命令で定めることとされており(労基法七五条二項)、右規定に基づいて規則三五条及び別表が定められている。しかしながら、例えば、別表第一の二第九号の「その他業務に起因することの明らかな疾病」と概括的に規定していることから明らかなとおり、別表中の具体的事由に該当する場合のほかについては、結局は、当該疾病が「業務上かかった場合」に該当するかということだけを、立法趣旨等をも勘案しつつ検討するほかないものである。これを一般に論じられているところに従って「業務起因性」という用語に置き換えるとき、業務起因性とは、当該業務と当該疾病との間に相当因果関係があるといえることであり、かつ、これをもって足りるものというべきである(最高裁判所昭和五一年一一月一二日第二小法廷判決、裁判集民事一一九号一八九頁参照)。

問題は、右の相当因果関係の内容であるところ、一般的にいえば、業務と疾病との間に条件関係があることを前提としつつ、両者の間に法的にみて労災補償を認めるのを相当とする関係をいうが、ここにいう「条件関係」なるものをどのように考えるか、具体的事案につきどのように判断するかは、特に本件のような脳疾患などの場合においては、著しく困難な場合が多い。

ところで、労災保険法は、労基法に規定されている使用者の災害補償責任を担保するための制度であるところ、右労基法上の災害補償責任とは、使用者が労働契約を通じて労働者をその支配下におき、使用従属関係のもとで労働者に労務の提供をさせることから、その過程において、労働者が企業に存在する各種の危険の現実化として負傷し又は疾病にかかった場合には、使用者に何らの過失がなくても、その危険を負担し、労働者の損失填補に当たるべきであるという危険責任の考え方を根拠としている。したがって、当該疾病の発生が、当該事案に現れた一切の事情に照らして、業務に内在ないし随伴する危険の現実化と見るのが経験則上相当であるかどうかだけを診断し、かつ、これだけをもって足り、これが肯定できる場合には、使用者は労働者の当該疾病に基づく損失を当然に補償すべきことになり、労災保険法上の扱いも同様になるものである。

業務上疾病としての脳疾患については、被告が主張するように、原因事実としての時間的・場所的に明確にしうる一定の出来事(例えば、頭部への打撃)が介在している場合(災害性の場合)と、業務に内在ないし通常随伴する有害因子の長期間の暴露により発生する場合がある。しかし、本件においては、本件疾病が前者(災害性の場合)であることは主張されていない。

災害性でない脳疾患の場合、右判断に際して、当該労働者の労働が「過重」であったといえるかどうかが極めて重要な位置を占めることは、論ずるまでもない。けだし、労働が過重でないのに、当該脳疾患の発症が業務に内在ないし随伴する危険の現実化と見ることは、経験則上困難であるからである。原告は、被告主張の現行基準において「過重負荷」を要件としていることを不合理と非難するが、職業性(非災害性)の脳、心疾患の場合、専門的医学上の知見に基づく行政基準として、これを「要件」とすることは、一律公平に大量の判断をする行政の扱いとしてやむを得ないところである。ただ、原告主張のとおり、右は行政基準上の「要件」であり、当裁判所の考え方は、前記のとおりであって、右を「要件」とは考えないものであるが、労働が「過重」であったかどうか、その程度がどうか、ということが、前示危険責任を前提とする限り重要な判断要素であることは、論ずるまでもないところと考えるものである。

なお、複数の原因が競合する場合の業務上疾病の判断基準につき、原告はいわゆる共働原因説を主張するところ、右にいう「共働原因」が、単に疾病発症に至る一原因という意味ではなく、諸々の原因があったとしても、当該労働がこれらの他原因と比較して相対的に有力な原因であったといえば足りる(最も有力な原因であることまでは必要でない。)という趣旨であれば、正当として是認することができる(この限りでは、被告の主張と同じである。)が、単に疾病発症に至る一原因といえさえすれば足りるという趣旨であれば(原告の主張がそうであるとは考えられないが)、労働者が罹患した疾病の発症と労働とが無関係であることはむしろ稀有であり、前示の危険責任に基づく労災保険法上の補償措置がこのように広い救済を考えているものとは解することができないので、にわかに採用できない(敢えていえば、原告は被告主張の「相対的有力原因説」による救済が狭きに失することを指摘したいにとどまるものと理解できるが、当裁判所の見解は前記のとおりであり、更に論ずる必要を見ない。)。

以上の考え方に基づき、本件を具体的に検討することとする。

2  原告の本件疾病の業務起因性について

(一) 結論としては、前記一の検討結果に照らすとき、前示相当因果関係を認めることは困難といわざるを得ない。

(二) すなわち、前記一の検討結果によれば、荒木商事の総務部が所管していた業務は広汎なものであったとはいえ、これを原告一人で処理していたわけではないこと、原告が行っていた予算の業務に関しては、荒木商事の規模等からしてさほど困難なものとはいい難いこと、決算の業務に関しては、会計事務所において決算書を作成するための資料作りであって、コンピューターから打ち出される数値の整理が主な作業であったこと、給与計算(及び年末調整)の業務に関しては、コンピューターと給与の銀行振込制度が導入されたことによって軽減されたこと、資金繰りの業務に関しては、ある程度の精神的負担を伴うものであったと考えられるが、原告一人で全部処理していたわけではなく、最も枢要な部分は荒木社長が自ら行っていたこと、荒木エージェントの業務に関しては、主として伝票整理の事務であったこと、原告の勤務時間に関しては、これが長かったことは明らかであるが、常に原告だけが朝の出勤時に会社の鍵を開けていたわけではないこと、また、原告が常に仕事の持ち帰りや休日出勤をしていたとはにわかに認めることができないこと、昭和五七年五月ころから行われた第二配送センターの建設に伴う原告の業務に関しては、工事現場の見回りが主であったこと、原告がコンピューターの操作に不向きであったことは明らかであるが、経理事務等の処理のためコンピューターを導入することは時代の趨勢であって、かつ、この導入により、その後の給与計算等の業務が現実に軽減された部分も少なくはなかったこと(そもそも、経理事務等の処理のためコンピューターを導入することによって、万一原告の労働が過重されたとしても、原告が総務部長であることに照らして、前示「危険責任」上、さほど斟酌すべきものとは考え難い。)、ヨーロッパ旅行に関しては、前記のような客の一人が短時間行方不明になったり、盗難があったりしたが、原告だけがその処理にあたったわけではないし、そもそも原告が責任をもって処理しなければならない事柄でなかったこと、同旅行により原告の行うべき業務が停滞したかもしれないが、原告が同旅行から帰国した後本件疾病の発症に至るまで半月以上もの期間があったこと、本件疾病を発症した部長会議に関しては、毎月定例のものであって、従来その議題が大きく異なったということはなく、当日原告も発言したものの、他の出席者から吊し上げにあうなどの格別緊張するような事態は全然なかったこと等々の認定評価となり、その他前掲各証拠及び弁論の全趣旨上本件に現れた一切の事情を総合しても、原告の行っていた前記のような業務が、他の同業種、同規模の会社において原告と同様の地位にある者の行うべき業務に比較して重かったものということは到底困難であるといわざるを得ない。

したがって、原告の右業務が本件疾病を発症させるような危険性を内在していたものと認めることは困難である。

前記一の9のとおり、原告が本件疾病を発症する直前に高血圧症であったことを示す具体的な証拠はないものの、昭和四八年から昭和五〇年ころの間高血圧傾向にあって、その後も引き続き高血圧傾向にあったものと推測されることを考え併せると、原告の業務が本件疾病を発症させたというよりも、むしろ、原告の右のような素因と、加齢により既に生じていた脳血管の変化が自然経過的に増悪し、たまたま会議中に本件発症に至ったものと見るのが相当であり、原告が従事していた業務と本件疾病との間にいわゆる条件関係が肯定されるかどうかはともかくとしても(ここにいう「条件関係」の概念、判断基準が極めて曖昧である。論者ごとに、考え方が異なるとすらいえる。被告の主張でも明らかでないし、現行基準でも、条件関係と相当因果関係の判断を峻別しているわけではないように見える。業務起因性に関する被告の主張をにわかに採用しないゆえんでもある。)、右両者の間に相当因果関係を認めることはできないといわざるを得ないところである。

(三) 右に関して、〈証拠略〉を総合すれば、原告は、真面目で責任感が強く几帳面であり、どちらかと言えば融通がきかず心配性の性格であることが認められるところ、前記一の検討結果中、予算業務を行うために日頃から日報をつけていたこと、決算業務を行うに際してコンピューターから打ち出される数値を逐一確認し、詳細なメモを作成していたこと、給与計算(及び年末調整)業務を行うに際しても、コンピューターから打ち出される数値を逐一確認するとともに、その内容が一般の職員の目に触れないように正規の勤務時間外や自宅で処理したことがあったこと、会社の鍵を預かっていた関係上、普段から午前七時三〇分ころに出社し、退社時刻が午後八時ないし午後一〇時ころになることもあったこと、第二配送センターの建設の際に火災予防のため工事現場の見回りまで行っていたこと等の事実(ただし、これらの事実関係がそのまま認定できるかどうか、その程度も含めて疑問の余地があることは既に述べたとおりである。)は、右のような原告の性格を反映したものとも考えられ、このような事情のために、その業務が原告にとって過重であった可能性があることは否めない。しかし、前記1のとおり、労基法及び労災保険法の定める労働補償責任の法的性格が「危険責任」の考え方に立脚していることに照らすと、業務起因性の判断は、本来客観的な通常の業務内容を基準として行うべきものであって、右のような事情(これはいわば原告の主観的特殊事情というべきものである。)を過大に考慮することは相当でない。これを過大に評価しないときには、前記結論は動かない。

(四) 最後に、証人服部真の証言及び同人作成の意見書(〈証拠略〉)について付言する。

右各証拠は、原告が本件疾病に至った経緯等についての原告の主張の要旨を前提として、原告の労働と血圧、本件疾病との関連について、原告は、以前からその血圧値がやや高く、血圧の変動が大きい状態にあったところ、慢性的な労働による血圧上昇が加わって脳内の小動脈の高血圧性変化が自然的経過を超えて進行し、更に一か月前からの過重な負担と会議中のストレスが加わって本件疾病に至ったと考えるのが妥当である、というのであるが、その判断の前提事実が前記一の検討結果と異なることは右に見たとおりであり、かつ、その判断に際して、労働者救済にのみ急であって(それ自体としては、理解できないわけではないが)、業務起因性の判断基準について、当裁判所の考え方とは合致していないものといわざるを得ないので、結局これをそのまま採用することはできないに帰する。

三  結論について

以上によれば、原告の甲、乙両事件における請求はいずれも理由がないに帰するので、いずれも棄却することとし、訴訟費用の負担につき行訴法七条、民訴法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 伊藤剛 橋本良成 高橋善久)

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